2018年7月30日月曜日

デスク席から(47)「あれから18年」

2000年の7月31日も、大変暑い日でした。
この日、大阪市の太融寺では、あるジャーナリストの告別式が行われていました。遺影には、黒田清さんの顔。
黒田さんは新聞社の社会部長を務めた後、大谷昭宏さんらと黒田ジャーナルを立ち上げました。
◆黒田清さん

戦争や差別に反対する姿勢を貫いたほか、読者とのキャッチボールによるミニコミ誌「窓友新聞」を発行。“小さな全国紙”とよばれました。
私が大学生の頃、大学祭の実行委員をしていて、講師をしていただいた黒田さんと接する機会がありました。
あらかじめ著書を読んでいて、堅苦しい人かな?と想像していたのですが、お会いすると全く違っていて、おおらかで優しい方でした。

三重テレビへの入社が決まった私が手紙でそれを報告すると、黒田さんはこんなお返事をくれました。
「いろんな問題にぶつかると思うけど、しんどくても手を抜かないでやりなさい。それが君の血になるのだから」
丸っこい文字で書かれたこの手紙は、今でも大切に残しています。

黒田さんと初めてお仕事を一緒にさせてもらったのは1998年の秋。三重テレビの情報番組「おもいっきり〇(マル)ミエTV」の報道コーナーのコメンテーターとして出演いただいた時でした。
この回では「青い目の人形(アメリカから友好親善の証として送られた人形)」を取り上げたのですが、黒田さんは、1本のビデオテープを持ってきてくれたのです。
「僕が出ているテレ朝の番組でも同じテーマを取り上げたことがあるねん。参考になると思うで、良かったら見とき」と。

そして番組の放送が終わり、黒田さんの事務所にお礼を伝えなければ、と思っていた矢先に、丸っこい文字のハガキが届きました。
「番組が楽しい雰囲気で良かったです。私で良かったらいつでもよんで下さい」。先を越されました。

最後にお会いしたのは2000年の4月。大阪・吹田の万博公園で開かれた「黒田ジャーナル・窓友会」の花見でした。
黒田さんはがんと闘っていて先が長くないと知っておられたのか、初めて参加した私をいろんな人に引き合わせてくれました。新聞記者さん、盲目の落語家、市民活動をやっている人…。ありがたかったです。
黒田さんからは、ジャーナリズムはもとより、取材対象者や関係者への心配りを教わった気がします。 
  
          ◆黒田ジャーナル・窓友会のお花見2000年)

あれから18年が経ちました。厳しい局面はありましたが、精一杯やってきたつもりです。
この間、ハンセン病問題などのテーマに恵まれ、幸い賞をいただいたこともありました。私には、黒田さんがくれたご褒美のように思えてなりません。
でも気を引き締めていやっていかねばと思っています。しんどくても手を抜かずに…。

7月31日が来ると、暑い太融寺と丸っこい文字を思い出します。